「中村人形と太宰府天満宮」スペシャルトークー文化がつなぐ親ごころと子ごころー【後編】

2022.13.12 Tue 10:53

令和4年2月26日、太宰府天満宮余香殿にて、『「中村人形と太宰府天満宮」スペシャルトークー文化がつなぐ親ごころと子ごころー』が開催されました。コロナウイルス感染対策を徹底した上で、事前にお申し込みくださった50名の方々にご来場いただくと同時に、オンラインでもライブ配信を行い、100名以上のみなさまがご参加くださいました。ここでは、当日のトークを“ダイジェスト版”として前編・後編の2回にわけてお伝えいたします。

前編はこちら

【後編】

生涯現役の時代に、親子はライバルになるか

ひきつづき、親世代・子世代というテーマでお話をうかがいますが、例えば65歳で仕事をお譲りになっても、いまはそれで隠居する時代ではありません。生涯現役、父親世代も現役、息子世代も現役。ときにはライバルとして、お互いを意識することもあるのではないでしょうか。お互いにここはかなわない、むしろここは追い抜きたい、と感じる点はあるでしょうか。

【西高辻信宏宮司】
(信良宮司は)代を譲ってからますます自由になったというか、元気になったというか、やりたいことがまた次々と出てきているような気がします。そういう譲り方ができて、気力が枯渇するのではなく、アイデアがふくらみ、やりたいことへの想いが強くなるような歳のとりかたを、私もしたいなあというふうに思います。どうでしょうか。

【西高辻信良宮司】
それぞれの代で、宮司がそれぞれの気持ちで天神さまと世の中に奉仕する姿勢が間違ってなければ、その最大の理解者になりたいと思っています。この太宰府に生まれて18歳まで過ごし、ここのお宮の境内の空気や、季節感や、おまつりや、行事などが身体にしみこんでいる上で、さまざまなことから多少はみ出る挑戦は大丈夫だろうと。新しいものに対するチャレンジをして、もしかしたら世の中からの批判もあるかもしれませんが皆さんから認められることもあります。今度、彼(信宏宮司)は1125年大祭と御本殿の大改修を進めます。いよいよ始まるところですけれど、御本殿を改修する時に仮殿をつくるんですね。その仮殿に神様へお遷りいただいて、ご奉仕するんですが、きっと皆さんがびっくりなさるような、いままでの神社にないような仮殿ができますので、厳しく現宮司にお言葉をかけていただければ、ありがたいです。

【中村弘峰さん】
僕自身は父のライバルなんてめっそうもないですが……。展覧会にもでている作品「エヴァンゲリオン」は最初、僕に話がきたのかなと思ったら父だったとかですね、そういった衝撃はあります。でも、実際には僕がエヴァンゲリオンの博多人形をつくったら、なんか当たり前すぎるというか普通だったでしょうね。むしろ、「え、信喬さんがつくったの!?」という驚きがフックになったんですよね。これがその老練というか、いいなって感じました。僕がつくるより父の方が面白くなるんだというような。もう、これはかなわない何かなんですよね、年輪的な。普通につくっただけで、より良く見える……いや、そういう意味じゃないですけど、うらやましいです。
よく父が言うのは、「うちの仕事は生涯現役、死ぬまで作家」。父は本当に2日に1回ぐらい、気になることがあったらすぐ病院に行きますから、すごく長生きしてくれるはずですが。僕はなぜか子どもの頃から、死ぬことがすごく怖くて、長生きしたいというか自分の人生が早く終わってしまうことの恐怖というのを感じていて、その人生そのものを父が先に過ごしている感覚です、うちの場合。西高辻家もそうかもしれませんが、自分が60代になったときの感覚をそのまま分かるのが、家が代々続いている利点というか。自分が父の年代の頃には、いまの父の動き方よりも、もっと面白いことをしていたいなという目標には常にあります。いま自分は36歳になりますので、父が36歳の時といまの自分を戦わせるような目線で客観しているところはあるかもしれません。

【中村信喬さん】
信良宮司と私は4歳違いで、信宏宮司とうちの息子が5歳違い、ちょうど同じぐらいの年の差です。信良宮司は引退なさらず、お譲りになる一方で竈門神社や神社庁へのご奉仕をなさっています。だからちょうどお手本として見させていただいていて、4、5年後には(弘峰さんに)中村人形の工房で主体になってもらおうかなというふうに思っています。
でもやっぱり自分では、もっともっとやりたいこと、いっぱいあるんですよね。今年も、10〜15トンくらいの石の彫刻や6メートルぐらいの大きなモニュメント、いろんなことをするんですけど、それだけじゃなくて、もっと自分のアートとしてもやりたいことがいっぱいあります。だから「息子は息子、俺は俺でやるけん」と。やっぱり作家としての欲求というものでしょう。何年かごとにまったく違う作風に挑戦していく作家を私は尊敬していて、自分でも違うことに挑戦しながら生きたいと思っているんですよ。だから(親子は)ライバルというより、もう次の世代は次の世代でやりたいことがあるなら、「そっちはお前やれ」という気持ちです。工房の経営も、4〜5年待たず来年にでも渡して、私はいろんなことやりたいと思っているんですが、なかなかそうはいかないんですよね。

【弘峰さん】
楽しそうでしょう、父は本当に。僕は、祖父や父の人形とは違うものをつくれ、とずっと言われてきました。そのお手本じゃないですが、父と祖父も作風がぜんぜん違うので、そういうところを参考にしたり、祖父の作家としての気持ちも見習いたいとこがあったりする。これって、人間の“あるある”だと思うんですけど孫の隔世遺伝っていうか……。

【信宏宮司】
分かります、私も父が近すぎる存在なので。私が6歳の時に亡くなった祖父が、著述によっていろいろな物を残していたりとか、伝記も当宮文化研究所の初代研究員であった森弘子先生に書いていただいたりということがあったので、何かあると、祖父はどう考えたんだろう、どう思ったんだろう、と祖父の姿に立ち返ることも多いですね。戦後の大変な時期に舵取りをしてきた、そういうところによく立ち返ってみるので、(弘峰さんの)気持ちはよく分かります。

福岡という地で文化を育てていくために

さて、太宰府天満宮は福岡の中心部「天神」や「鴻臚館」から一直線上に道がある街、福岡はいわば天満宮まで祈りでつながっているところのある土地だと言えます。そうした場所で、アートプログラムや境内美術館の活動はアーティストを招くだけでなく、文化として根づかせ、土地の豊かさを育んできました。今後どういった試みを広げていこうと考えていらっしゃるのでしょうか。

【信宏宮司】
ここ太宰府に住み、私も小さい頃から感じていたのは、歴史的なことがらはとても多い一方で、いまの時代の文化にふれる機会に恵まれていないということ。それが、九州国立博物館ができたおかげで、本当にすばらしい作品にもふれる機会が増える中で、天満宮が果たすべき役割は、同時代の方々と一緒に展覧会を企画したり作品をつくったりして、それを公開し、たまたまご参拝にこられた方も文化にふれられる機会を創出すること。いつ来ても今の文化に出会えることが天満宮の良さだと考えてきました。境内にも常設の作品がたくさんあり、これは何だろうと気づいてくださったのがきっかけで、アートや文化に興味を持っていく、そういう入り口になれたらいいなと思っています。
もちろん現代アートに加えて、文化的な要素も徐々に生活のなかから失われているということも強く感じておりまして、天満宮には幼稚園もありますので、そこでは日本の文化を生活のなかに根づかせることによって残そうという試みを実践しています。和菓子を主題にしたワークショップや、またそれを幼稚園内でふれるような機会を設けたり、日本茶をテーマに学習したり、と日々の生活に息づかせることによって残していこうと。できることがさまざまあるなかで “未来の種まき”をしていきたいと思っています。それが発芽するかどうかは分からないけれども多くの種をまいていくことで、かかわる方の人生が豊かになったり、変わっていったりすれば、それが文化の理解につながり、街づくりにおいても少しずついい地域になっていければというふうに考えています。

【信良宮司】
私は、福岡って、とっても元気でおもしろい街だと思っています。ただ、福岡の人たちの欠点がひとつだけあるんですね。何かというと、ストックすることが苦手なんですね。流行りものにパッと飛びつく鋭い感性をもっているのですが、それをちゃんと保ちながら土地の文化に置き換えることができてこなかった。際(きわ)にあった街だからそうなのかもしれませんが、やはり大きな欠点。たとえばお茶やお菓子、さまざまなものが博多を経由して全国に広がっているんですけど、それが文化として定着しなかった。
そこで我が先祖たちが考えたことは、ストックするために何がほしいか。その答えが博物館だったんです。九州国立博物館。ここで初めて九州のものをストックできる、大きなセンターができたのは、いちばんの価値です。ですから、これからは、みんなで街をどのくらい楽しくできるか。自然とアートと音楽と、さまざまな文化がありますので、街のなかにその魅力があふれることが、本当の意味での都市づくりじゃないだろうかなと、私はそのように考えています。太宰府天満宮がその一助をになうセンターのひとつになれればありがたいですし、私はいま竈門神社と、福岡市の東にあります志賀海神社をお預かりし、これからは筑紫野市の筑紫神社もお預かりして、それぞれの魅力、神様の魅力や土地の魅力を発揮できるようにしたいと考えているところです。
そして、親子でありながら、私はやっぱり息子を最大のライバルだと思っています。同じやり方はしたくないですね、息子と。違うやり方をしながら、ちょっとずつおいしいところを取っていきたいですよね。

九州国立博物館
提供:九州国立博物館

【信喬さん】
私はこの太宰府天満宮で牛を彫らせていただいたり、天神さまを彫らせていただいたときもそうだったように、必ずその土地に行くようにしいます。その現場に自分が立ったとき、何を感じるか。極端に言えばタイムスリップして、何百年、千年前のイメージをポンッと、そこに立ったときに教えてもらえるような気がするんですよ。作品を頼まれたときにも必ず行きますし、調べるときもその場所に行くようにしています。天正少年使節団をつくるときにはヨーロッパへ行き、伊東マンショが弾いたパイプオルガンがあるエボラのカテドラルに立ってみる。そうすると、自分になにかが備わったような気がしてきます。
作家というのは使命感が必要です。何をもって表現し、見る人に何を伝えたいかという使命感をもつ。その際に、土地はすごく大事なんです。それを学ばせて頂いたのが、この太宰府天満宮でした。だから天拝山にも登らなくちゃと思ったんですよ。娘と行ったら、道を間違えて一番キツイところから古道を登ってしまいました。本当は車でピュって行けるはずだったんですけど……。でもそれはいま考えてみれば、天神さんにこっち側から登りなさいと言われたのかもしれません。だからいちばん下からずっと登って、天神さんが立たれたあの石の近くに立った瞬間、それから上の展望台から見晴らした瞬間に、あそこで天にむかって祈られたんだなと感慨深い気持ちになりました。作品では最初、神様だから白装束を構想していたんですが、天に祈るのなら正装、衣冠束帯(いかんそくたい)の黒の御袍(ごぼう)で祈られたんじゃないかなと、そこに行ったからわかったんですよね。
やっぱり、場所は何かを教えてくれます。そのためには、常に自分がニュートラルの受信体で邪念がない状態で、ずっとあり続けたいなと思います。みなさんも、神社にお参りするとその気持ちになりませんか? なんだかクリーンになるというか、自我がなくなるというか。そういう心が非常に大事だと思っていますので、中村人形は親子でやっていても、人格が違うので感じ方も違いますが、「ニュートラルな受信体になりなさい。自我はいりません。人のためにつくりなさい」という姿勢はずっと受け渡していきたいなと思っています。

「菅公天に祈る」中村信喬
2021年

【弘峰さん】
父の時代の文化やそれをとりまく状況は、いまとかなり違うなと思うところはあります。僕にはひとつのキーワードのように、“持ち場を守る”っていう感覚が強いのですが、もう皆さんご存知のように、世の中のさまざまなものごとに従事する人が減っているわけですが、こと博多人形にしても壊滅状態というか作家の数がすごく減って、総生産高も減り、規模が縮小しています。そんななかで、でも逆に持ち場を守ろうとしている人たちが、すごく目立つようになっている印象もあります。人間は、いろんなことを同時にはできないじゃないですか。僕だったら、この家に生まれてしまって、人形ってなんだろうというものすごく難しい問いを、曾祖父、祖父、父と考えてきたのを渡される環境にあって、その答えも出せてないのに、街づくりにかかわる、街づくりをやっていくことは、なかなかできないと思うんですね。
まず自分の持ち場を守る必要があると感じているし、ものすごくニッチな博多人形というものを真剣に考え抜いて自分なりの回答を提出することで、少しずつ皆さんと会話ができるようになって、「あ、これは少し持ち場を守れているということなのかな」と。持ち場が守れるようになると、会える人の種類が変わってきたなと感じることもあります。同じように、持ち場を守ってらっしゃる人たちとの出会いが増えている感覚があるんです。
僕から五代目に引き継ぐときに伝えられることがあるとすれば、福岡の文化、日本の文化、アジアの文化のバリエーションを極力保ったままつなぐのが理想だということです。数が減っていっているのは人形師そのものだけじゃなく、また筆屋さんがつぶれたとか、粘土屋さんがまた1軒なくなるらしいよとか、多くの選択肢がなくなっていっています。なんだか日本の文化がやせ細っていっていうような……。そんななかでも、せめて自分の持ち場を守る。持ち場を守れると、家業のバリエーションは一応守れる。そうやって持ち場を守っている人たちと手をとりあいながら、なるべくいろんな種類のものを次世代に残せれば、その子孫たちがまた次の発展をさせていってくれるかもしれない。日本の価値は、その特殊な文化のバリエーションで成立しているなと僕は感じています。だから、そのための活動は続けていきたいですね。

みなさまへのメッセージ

「文化がつなぐ親ごころと子ごころ」というテーマでおとどけした「中村人形と太宰府天満宮」スペシャルトークの“ダイジェスト版”。最後に登壇者からもう一言ずつ、ごあいさついただきます。

【信宏宮司】
今日は会場の皆さま、そしてオンラインを通じても多くの皆さまにご視聴たまわりまして、まことにありがとうございます。親子でなかなか話す機会がないので、話にくいなあと思っていましたが、これが最初で最後の貴重な機会だったと感じております。本当にすばらしい機会をいただきまして、心から感謝を申しあげます。まことにありがとうございました。

【信良宮司】
話す機会がないと言っていますが、背中で教えないといけないことって、私はあるような気がするんですね。御本殿の御内陣に入って天神さまにご奉仕をするとき、宮司職をバトンタッチする前に何年か一緒に入ったのですが、御内陣の中では言葉を発してはいけないんですね。その姿をちゃんと見ながらその場で体感し、覚え、そしてご奉仕していくということが、いちばん大切なことじゃないかなと私は思っています。今日この会場に孫も来ているんですけど、やはりこの空気がわかるようになったら、きちんと自分の道を選ぶと思うんですよね。「したいことはこうだけど、やっぱり僕はこっちの方のことをすべきだよね」という気持ちから、きっと親から子へつながっていくのではないかなという期待をしているところです。今日は本当にたくさんの皆さまにご清聴いただきまして、ありがとうございました。

【信喬さん】
人の形をつくり続けているわが家が大きなことを言うようですが、いまロシアとウクライナの戦争が勃発して、人の形が失われていっています。この福岡でも、台風の災害をはじめとして、大雨、震災、といった自然災害がたくさんある。そこでも人の形が失われていく。でも私は、人の形が大事だと本当に思っているんですね。人の形がちゃんと受け継がれているっていうことは平和である証だと思いますし、この文化のなかで人の形というものを大切に、夢や希望がある作品をつくり続けていきたいと思っています。そして、皆さんにお話しできたり、作品をお披露目できたりするこういう場をまたもたせていただき、本当に幸せだなと思っております。本日はありがとうございました。

【弘峰さん】
今日はありがとうございました。僕にとっては3年ぶりになるトークイベントを開催できて、嬉しく思っています。
太宰府天満宮がそういう存在であるように、福岡の人にとって遠くから訪ねて来た友だちに、「中村人形っていう工房が博多にあるんだよ」と言ってもらえるような存在になりたいよねって父と話しています。このような展覧会をさせていただいて、「中村人形と太宰府天満宮」という展覧会のタイトルまで付けていただいて、本当にありがたく思います。こうした恩恵を受けて、この街に本当に助けてもらっている工房であり家業だと改めて感じました。これからも、もっとこの街の文化面で人と人がつながっていったり、失われそうなものをくい止めたり、いろんな情報を交換したり、次の世代につないでいける福岡の文化をより良く発展していく活動を続けたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。

 

このトークは、2022年2月26日太宰府天満宮余香殿にて開催された『「中村人形と太宰府天満宮」スペシャルトークー文化がつなぐ親ごころと子ごころー』の記録からウェブサイト用に抜粋し、再編集した内容です。

「中村人形と太宰府天満宮スペシャルトーク」ー文化がつなぐ親ごころと子ごころー
登壇者:
西高辻信良(太宰府天満宮第三十九代宮司・現 最高顧問)
西高辻信宏(太宰府天満宮第四十代宮司)
中村信喬(中村人形三代目)
中村弘峰(中村人形四代目)
進行役:
髙木崇雄(工藝風向店主)
高橋美礼(デザインジャーナリスト)

日時:令和4年2月26日(土)14:00~ 参加無料・要申込
※余香殿50名/オンライン100名限定(各先着順)
会場:太宰府天満宮余香殿(社務所2階)
主催:太宰府天満宮
共催:FACT(Fukuoka Art Culture Talk)
デザイン:三迫太郎
テキスト編集:高橋美礼