「中村人形と太宰府天満宮」スペシャルトークー文化がつなぐ親ごころと子ごころー【前編】

2022.13.12 Tue 10:51

令和4年2月26日、太宰府天満宮余香殿にて、『「中村人形と太宰府天満宮」展スペシャルトークー文化がつなぐ親ごころと子ごころー』が開催されました。コロナウイルス感染対策を徹底した上で、事前にお申し込みくださった50名の方々にご来場いただくと同時に、オンラインでもライブ配信を行い、100名以上のみなさまがご参加くださいました。ここでは、当日のトークを“ダイジェスト版”として前編・後編の2回にわけてお伝えいたします。

「中村人形と太宰府天満宮」展についてはこちら

後編はこちら

【前編】

登壇者のご紹介

スペシャールトークの登壇者をご紹介します。まずは中村人形のおふたりです。

中村信喬さんは、昭和32年福岡市生まれ。「人形とは人の祈りを形にしたもの」を理念とする工房、中村人形の三代目であり、日本工芸会の理事もつとめています。
代表作には、天正遣欧少年使節や戦国期のキリシタンの姿を題材にした代表作の南蛮シリーズや、KITTE博多に設置されているエンジェルポストといった公共のモニュメント、そして今回の展覧会で特別公開されたエヴァンゲリオンの博多人形、博多区の住吉神社にある「古代力士像」など数々があります。

「南蛮夢想」中村信喬
1994年
「エンジェルポスト」中村信喬
2016年
KITTE博多
「古代力士像」中村信喬・弘峰
2013年
住吉神社
「博多人形エヴァンゲリオン」中村信喬
2021年
©カラー
中村信喬さん

【中村信喬さん】
皆さん、こんにちは。家業である中村人形が今年で105年目、ランナーとしては3番目を受け継いでいます、中村信喬です。どうぞ、よろしくお願いします。

中村弘峰さんは、昭和61年福岡市生まれ。中村人形が代々ずっと続けてきた博多祇園山笠・土居流の舁き山の仕事を、平成29年に信喬さんから引き継ぎました。
デビュー作『決戦大江山』は、大江山の酒呑童子と源頼光を題材にとった素晴らしい仕事です。また、近年特に弘峰さんの名を高めた作品が、節句人形を現代的視点で読み解くアスリートシリーズです。普遍的なテーマを江戸時代の技法でいまの時代に生かし、かつ、次世代に人形の素晴らしさを残していく期待の四代目です。

「博多祇園山笠土居流
決戦大江山」中村弘峰
2017年
「この矢はづさせ給ふな」中村弘峰
2019年
「太宰府天満宮令和4年干支置物」中村弘峰
2022年
「花守」中村弘峰
2021年 2022年12月13日~23年5月14日まで宝物殿にて展示中
中村弘峰さん

【中村弘峰さん】
皆さん、こんにちは。中村人形四代目の中村弘峰です。ランナーとしては4番目、まだバトンは頂いてません。今日はいろんなお話ができればと思います。よろしくお願いいたします。

そして太宰府天満宮の最高顧問と宮司のおふたりです。
御祭神である菅原道真公から数えて三十九代目にあたり、先の太宰府天満宮宮司であり現在は最高顧問、そして宝満宮竈門神社の宮司を務める、西高辻信良宮司です。
信良宮司は、昭和28年太宰府市生まれ。慶応義塾大学文学部から國學院大学へ進み、神職資格を取得。以後、太宰府天満宮において奉職されてこられました。平成31年、65歳の時に宮司職を信宏宮司に譲りましたが、いまなお神社関係の要職を歴任するかたわら、九州国立博物館の評議員を始め、芸術文化の分野にも積極的にかかわっています。
信良宮司の時代に力を入れた取り組みのひとつに、太宰府天満宮の「樟の杜」があります。国の天然記念物に指定されている2本の大きな樟を含む51本の巨大な杜は、菅原道真公がお鎮まりになる前からずっとこの地を見守ってきた聖なる杜です。
また、竈門神社では主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りし、魂(玉)と魂を引き寄せる(依)という御神徳による「縁結びの神」、大宰府政庁の鬼門除けとして「方除け」「厄除」のための祈りの場として守り、育て続けています。祭祀がはじまって1350年の節目にあたる平成24年には、100年後の神社のスタンダードを提示する試みとして、「お札お守り授与所」を新築しました。

「太宰府天満宮
樟の杜」
「宝満宮竈門神社」
宝満宮竈門神社のお札お守り授与所はインテリアデザイナーのワンダーウォール片山正通さんによるデザイン
西高辻信良宮司

【西高辻信良宮司】
皆さん、こんにちは。第三十九代の太宰府天満宮宮司でありました、西高辻信良でございます。私の家は、菅原道真公の墓守の家です。38人まえのご先祖から39番目のバトンを受け取った人間で、それをやっと3年ほど前に40番目にバトンを渡すことができました。古い、古い家ですが、いまふうに頑張っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

平成31年に第四十代目の宮司職に就いたのが、西高辻信宏宮司です。
信宏宮司は、昭和55年太宰府市生まれ。東京大学文学部で美術史学を学び、國學院大學大学院で神職資格を取得後、太宰府天満宮に奉職しています。
神職としての祭祀職に加えて、平成18年からは太宰府天満宮アートプログラムを進めてきました。これは、菅原道真公が芸術や文化の守り手として崇敬をあつめてきたことを受け継ぎ、時代の最先端のアートを受容し、広く発信しながら、これから100年、1000年先の未来を見据えた天満宮の姿勢を世界に向けて示す試みでもあります。平成17年に太宰府天満宮の敷地内に開館した九州国立博物館のように、単に太宰府天満宮のためということではなく、太宰府、福岡、九州の皆さんへひらかれた芸術文化を育んでいます。

太宰府天満宮アートプログラムvol.1
日比野克彦「描く書く然々(かくカクしかジカ)」2006年
太宰府天満宮アートプログラムvol.4
小沢剛「ホワイトアウト-太宰府-」2008年
西高辻信宏宮司

【西高辻信宏宮司】
皆さん、こんにちは。太宰府天満宮の第四十代宮司を務めさせていただいております、西高辻信宏と申します。いま、太宰府天満宮は梅が満開で、境内には素晴らしい梅の香りがただよっている季節でございます。こうやって、「中村人形と太宰府天満宮」展に合わせまして、中村信喬先生、弘峰君の親子と、私ども親子とで、このような機会をいただき大変ありがたく思っております。父とこう並んで話すことは、ほとんどなく、もうこれからもないかもしれない貴重な機会かもしれませんので、どうぞよろしくお願いします。

“ご縁”から実現した親子展

中村人形と太宰府天満宮には、人々の“祈り”を受け止める仕事をこれまでずっと続けてきたという共通点がありますが、最初に、宝物殿での展覧会「中村人形と太宰府天満宮」展の開催経緯と、いまの手応えをそれぞれにおうかがいします。

【弘峰さん】
かれこれ2年前か3年前になると思いますけれども、信宏宮司から、宝物殿で私の個展をしてみないかという打診をいただきまして……。ものすごくおそれ多いなというか、荷が重いなという気持ちもありながらも、とてもうれしかったんです。そんな中で、信良宮司から、親子展もいいのではないかとアイデアをいただきました。実は、僕と父の間では親子展は一生やめとこうねって話していたんです。でも、親子展は大勢の人が見たいと思うと言っていただきました。
振り返ってみると、中村人形は福岡の中でまとまって自己紹介みたいなことをしていないんです。中村人形とはいったいなんなのか、誰が初代でどういう家なのかって、どこにも載ってないし、美術館、博物館にも記されていないですし、皆さんに分かっていただいていないんじゃないかというふうに、そもそも思いまして。
それで父と相談しました。初代・ひいお爺さんからの作品や、歴史にまつわるようなものを展示して、中村人形を紹介するような展覧会を太宰府天満宮の宝物殿でさせてもらえたら、それはすごく意味があるのではないだろうか、よしやろう、と。その企画をお伝えしたところ、ぜひというご決定をいただいて実現した展覧会です。
展覧会のタイトルでは、名前が「中村人形と太宰府天満宮」という順番になっています。これは仮タイトルだったので、最終的に僕もちゃんと担当の学芸員と確認したんですよ、「太宰府天満宮と中村人形ですよね」というように。そうしたら、「中村人形が先でいいです」と。こうして字面で見ると、インパクトがあるというか衝撃的でもありますね。
親子展にすることについては、もともと、やめとこうと話していたから嫌だなと思いながらも頭をよぎったのは、「あ、このまま個展にしてしまったら、一生後悔するかもしれないなあ」という気持ちでした。この機会に親子展にしなかったら、「一緒の舞台に立てる瞬間があったのに」と後悔しそうだったので……。今は本当に実現できて、僕としてはすごくうれしいことが連続する期間を過ごせていると感じています。

【信喬さん】
とても多くの方々が見たよと言って、祖父や父の作品への感想も含めて、たくさんの好評をくださってありがたいです。
信良宮司さんと僕は4つ違いで、22歳からのお付き合いをさせていただいてまして、いつの日か太宰府天満宮で展覧会ができたらいいよねみたいな話は、以前からあったんですよね。でも、展覧会タイトルのことは(弘峰さんに)「お前、間違っとっちゃないか、もう一回聞き直してこいっ」て、そんなはずはないからって言ったくらい信じられませんでした。当然、太宰府天満宮の名前を先に持ってこなければ、と話したんですけど、最終的にはこういう形になりまして、本当にありがたいなと思います。
私の父、それから祖父は、我が家の中では非常に上手な人でしたが、商売が下手くそで、人と会うのも嫌い、しゃべるのも嫌いで。50歳で死んでしまった祖父はパリ万博でも高く評価された人物だったんですけど、世間的には「中村っていうのは腕がいいのに……」と見られていたんですね。私は自分ががんばっていれば、父と祖父の名前を世間へ出せるなと、子どもの頃から思ってましたんで、この機会は初代や二代目がこういう作品をつくっていたんだと知ってもらえる、絶好のチャンスだなと考えたんですね。だから、本当にありがたい。中村人形でこの展覧会できたということは、いま7歳の五代目から先の末代まで自慢にできる、そんな展覧会にさせていただきました。

【信宏宮司】
今回の「中村人形と太宰府天満宮」展は、2021年の9月から半年以上にわたって、ロングランで展覧会をさせていただいております。
そのきっかけとしては、まずは信喬先生と父(信良宮司)とのご縁があります。長年にわたって太宰府天満宮に関わる作品などもつくっていただきまして、たとえば平成14年に御神忌1100年の大祭の記念では天満宮の樟で御神牛をつくっていただきましたし、その後も天満宮のお正月の干支の置物と土鈴と絵馬の制作を長年にわたってお願いしておりました。弘峰君は、大学院を卒業したあとに柿右衛門先生の所での修行を終えてから、太宰府天満宮で半年間お預かりしまして、天満宮の境内には梅が6000本あるんですが、その管理、剪定をする部署に配属されて、境内の梅の木の管理、また境内の管理をして日々ご奉仕いただいたということがあります。そのご縁で、弘峰君も前の酉年の時から、信喬先生より引き継いでいただきまして、お正月の干支置物や土鈴の制作などをお願いしているところでございます。
私も代替わりしたなかで、弘峰君にぜひお願いしたいと展覧会を頼んだところ、四代にわたる中村人形の軌跡をご紹介するような、このような素晴らしい機会をいただいたという経緯です。
今回の展覧会でひとつだけお願いしたのは、展覧会に合わせて新しい作品を1点ずつ、信喬先生と弘峰君に手がけていただきたいということでした。信喬先生には天拝山で道真公が祈られている姿を、実際に天拝山に登られて感じたものを形にしていただきましたし、弘峰君には半年の修行の間に感じたところをテーマに、天満宮のこの杜と自然を守る剪定班を題材にした素晴らしい作品をつくっていただきました。このような形で通覧して作家の先生の作品を見てもらう機会は少ないんですけども、ひとつの場を設けることができたのは、主催者として大変ありがたく、嬉しく思っているところでございます。

【信良宮司】
最初にお会いしたのは、信喬先生が22歳、私がまだ権宮司の時でした。お父様がお連れになり「うちの息子ですので、よろしくお願いします」ということを最初におっしゃったんです。それからのご縁ですから、もう45年以上がたちました。
ある時、信喬先生と私の共通のお師匠さんから、こう言われたんですね。「西高辻君、チャーミングなものを集めなさい」と。信喬先生にも「チャーミングな作品をつくりなさい」と。お互いに全然違うフィールドでありながら、このチャーミングとは何かとずっと考えるんですね。いろんなことが、そのチャーミングっていう言葉に含まれているような気が私はします。チャーミングな神社にするために、チャーミングな展覧会をやるために、チャーミングな作品をつくるために。ですから、私は神社を預かる人間として、天神さまならどうお感じになるだろうと、いつも考えるんです。皆さんが、天神さまがよろこばれることを、そしてここにおいでになる皆さんが元気になることをし続けなきゃいけない、そのひとつに祈りの形としてのひとがたがあり、人形があり、私たちがいるのだと。ですから弘峰君ひとりの展覧会ではなく、どちらかというと親子展をやってほしいと話しました。親子代々で祈りの形に取り組んでいることが、いちばん大切なメッセージじゃないかなと考え、現宮司にお願いしまして、弘峰君のご承諾も得て、この展覧会が実現しました。本当に多くの皆さんにご覧いただいて、心から感謝を申し上げます。

太宰府天満宮での“修行”とは

親と子、それぞれのご縁から実現したこの展覧会では、太宰府天満宮での修行時代にまつわる弘峰さんの作品が非常に印象的な存在になっています。弘峰さんを修行へ送り出したのは、信喬さんでした。なぜ人形をつくることとは違う経験をさせたのでしょうか。

中村弘峰さんのコラム「花を守る人々」はこちら

【信喬さん】
私自身は若い頃、京都の屋根裏に住んで修行をしました。お人形屋さんに預けられて、休みの時にはさまざまな作家の先生のところを巡るという修行をしたんですけど、中村人形では代々、必ず修行に出るのですが、いまの時代、内弟子として預かってもらえるところってもうないんですね。(弘峰さんは)最初、14代酒井田柿右衛門先生のところに預けました。それはですね……。
信良宮司は(福岡県立)修猷館高校へ行かれて、信宏宮司は久留米大学附設高校から東京大学に進まれたという優秀なおふたりで、わが息子は修猷館高校から東京藝術大学に行っている。私の父も修猷館高校の受験には受かったんですけど、「人形屋が? そげなとこ行かんでいい」と入学金も払ってもらえず、通わせてもらえませんでした。私は勉強が苦手だったので修猷館高校へは行ってないんですけど、息子みたいな人間が東京藝大に行って賞を取りまくるわけですよ。そんなやつは、ろくでもないやつになるので、鼻をへし折らなくちゃいかんですよ。だから、修行に出したいと思っていました。
まずは、広大な敷地で朝から晩まで草むしりをする仕事ができるようなところがいいだろうと、柿右衛門先生に相談したところ、預かってやるとおっしゃった。それで、半年間。本当は3年ぐらいやりたかったんですよね。半年間、イノシシやムカデが出るようなとこに住まわせて自転車で通わせた。で、残りの半年を信良宮司に預かってもらえますかとお願いしました。(弘峰さんが)生まれたときからすごくかわいがってもらってきたので、柿右衛門先生にも言ったんですけど、柿右衛門先生ご自身には預けません、給料もいりませんと。ろくろ、絵付け、何もさせなくていいです、とにかく朝から晩まで草むしりと掃除番で預かってくださいとお伝えしました。同じように、信良宮司にも、預かってもらいたいですが宮司ご自身には預けませんよと。
境内にある梅の木6000本の剪定をしてる3人のいちばんトップである古賀君という人は、人柄がとても良いんですよ。私は、御神牛を彫らせていただいたとき、社務所の向こう側の斎館の裏にある授与品倉庫で、2トンの樟(くす)から牛を彫っていったんですけど、樟の葉が散るのを、リヤカー引いた職員がずっと掃除してるんです。これだけ広い敷地なので、端っこからずっと向こうまで行くと今度こっち側にはもう散っているわけですね。その掃除を繰り返しているこの人たちはすごいなと。こういう仕事を(弘峰さんには)させにゃいかんと思ったんですよ。それで、剪定班の古賀君に預けますから、宮司たちはとにかくかわいがらないでくださいってお願いしました。朝から晩まで梅の木の剪定と草むしり、掃除番に預けたら、ちいたぁ、ものになるかなという精神的な修行です。
自我はいらない、とにかく人にしてあげられる、その精神を備えるためです。僕らは人に夢や希望を与えるのであって、自我のアートを押し付けるんじゃないから、そういうことが大事なんです。芸術賞を取って優秀な学校に行くと天狗になるわけですよ、ときどき、いまでも。だから、それを僕がボキって鼻をへし折ってやるために信良宮司にお願いして、預けました。

【信良宮司】
確かに、お預かりをいたしました。本当は何の仕事をさせればいいかと信喬先生に聞いたのですが、剪定班がいいと。草むしりがいいって。しかし、これが楽ではないんです、実に。ご存じのように、この天満宮の境内は樟の杜であります。毎年4月になると、樟の葉が降ってくるんですね。掃いたその後から樟の葉が降るように散るんです。
弘峰くんは、半年間がんばってくれました。彼が天満宮を卒業するとき、剪定班が弘峰君に何をプレゼントしたと思いますか? 実は、剪定班と同じ作業着なんですね。いつでも天満宮に帰って来ていいよと作業着の上から下までひと揃いを渡していました。厳しい修行だったのですが、弘峰君は天満宮の仲間のひとりなんだと多くの天満宮の職員に認められています。きっと管理員は弘峰君がうちに来たときに、おかえりなさいと言うでしょうね。信喬先生が弘峰君をうちへ預けてたことは、弘峰君のいまのいろんな原点のひとつになっているんじゃないかなと思います。

同世代の作家にフォーカスするアートプログラム

長い歴史をもつ太宰府天満宮では、評価がすでに定まっている美術品や、誰もが価値を認めるような工芸品を保存するだけではなく、今回の中村人形のように、同世代の作家による新作を収集し、展示してきました。なぜそういった試みを続けてきたのでしょうか。

【信宏宮司】
天満宮の宝物殿には、過去から大切に残されてきたものや、ご奉納いただいたさまざまなものがあり、私は子どもの時からそれらにふれていました。そうするなかで、こうしたものはただ単なる“物”ではなくて、歴史的な変遷を経てここに残っているという、その歴史的な側面と美的な側面と、その両方が合わさってはじめて、私が目にすることができたのだと感動したのを覚えています。
そうしたものは、やはり前の時代の方々がしっかりと残していこうと思われて、また、奉納されたものを守り続けよう、収集しようとしたから伝わってきたものです。じゃあ、未来に向けていま何ができるか。もちろん古いものをそのまま大切に残していくのはもちろんですけれども、いまの同時代のアーティストの方々と一緒に制作したものを未来の宝物として残していくことも、神社の役割として大きくあるのではないかなというふうに考えました。
その根本となっているひとつは、菅原道真公が文化の神様であるということです。歴史的に見ても、特に近代以降は太宰府博覧会というものを明治6年、7年、8年と早い段階でおこなって、さまざまな宝物などを多くの方々にご覧いただく機会をもうけていましたし、のちにそれが国立博物館の誘致運動につながりまして、父まで含めて4代、117年かけて受け継いだ願いが九州国立博物館の設立へと結実しました。そのことがやはり念頭にありましたので、私自身、学生時代にイギリス人の現代アーティストと展覧会をつくりあげたるといった非常に充実した経験をへて、同世代の方々とも一緒に、この太宰府の地に、そして福岡の地に、文化を少しでも広げる、根付かせることができるのではないかと。それが、文化が生まれる場所である神社の役割でもあるのではないかと考えてきました。

【弘峰さん】
今回の展覧会の冒頭には、中村人形ではない展示品があります。その、天満宮ゆかりの作品と、中村人形が並列されているという状況が、信宏宮司のおっしゃっていることのそのままだと思うんです。
本展のために父と私で1点ずつつくった新作が宝物殿に所蔵され、いまはできたてほやほやなんですけど、100年、200年経って実際に100年後の人たちが見たら、「へえ、剪定班って昔こういう格好してたんだ」とか、そういう部分に着目されるかもしれません。でも、そういう見方で、いまのわれわれは昔の宝物を実際に見ているところがありますよね。たとえば漆の塗り箱であったり、銅製の鐘であったり……。それらを手でつくった職人がいるんだよなあ、と思いをはせる。現代アートという言葉で区切られてはしまうかもしれませんが、現代でつくった何らかの作品が保存されていくという、シンプルな構造に見えてきて興味深いです。

【信宏宮司】
そうですね。常に多分、父もそうだと思いますけれども、私自身もやっぱり過去と未来の間を生きている、預かっているという意識がすごくありまして、その中で何ができるかということを常々考えています。そして父もその中で全力疾走して、いま私が受け取って、さらに未来へ向けてバトン、たすきをつなげていく。自分の任された時代と同じ時代に生きる方々と一緒につくりあげるというのは、大変光栄なことですし、大事なことだと思っています。

【信良宮司】
語弊があるかもしれませんが、私、過去の遺物のようなニュアンスでとられてしまう「文化財」という言葉には違和感があります。
神社はどの時代も、その時代の中で役割をもって生きていると、そう信じてご奉仕をしてきました。この21世紀に生きている神社は何か。それを、ずっと考え続けています。いろいろなアプローチがあると思いますけれども、いま、太宰府天満宮の御本殿は420年ほどたっています。420年前に天神さまのための御本殿をつくられた人たちは、当時の技術の最先端で最高のものを使ったと思うんですね。結果として本物だったから、420年いまだに存在していると思います。
この時代、神社の可能性を考えたときに、やはり待っているのではなく社会に対して何かアプローチをし続けていく。そんなことが必要じゃないでしょうか。そのアプローチの一つひとつの形が、それぞれの代では違うんですね。いまの宮司の場合は、それがアートだったのでしょう。私の時代はちょっと違って、やはり境内をどのようにして美しい場所にしておくかを考えてきました。結局樟でも梅の木でも、自然のままでは朽ちるだけなんですね。手を入れ続けて、いまのものとして残す。
この21世紀には、21世紀のやり方があります。多くの皆さんが天満宮という空間に来たときに元気になれる。その、ひとつのアプローチのしかたが現在の四十代目にとってはアートということではないでしょうか。私は、そのように考えているところです。

中村人形と太宰府天満宮、それぞれの親子

アートプログラムに限らず、さまざまな試みを続けていくにあたって、先に経験をした世代から下の世代に対して伝えたい思いが強まり、つい押しつけになってしまうということはありがちです。しかし、二組の親子関係には、そういった様子は感じられません。普段はどのような会話をしているのでしょうか。そして、ご自身の役割について、あるいはご自身が先代から受け継いだ役割については、どう捉えているのでしょうか。

【弘峰さん】
きょう、父の運転でこのトークイベントへ一緒に来る時も、ずっと会話をしながら来ました。ふたりで泊まりがけの釣りに行くこともありますし、釣りをしている間も、「次はどんな作品つくるつもりや」とか、そういう話をすることが多いです。それは僕が子どもの頃から変わらなくて。そのおかげで、ちょっと突拍子のないような、博多人形の枠からちょっと飛び出しても良さそうだなって冒険できる心の土壌みたいなものが、その父の普段のポジションというか、僕に接する雰囲気によって、はぐくまれたんだと思うんですよね。父との会話が少ないと感じたことではなかったので、その意味ですごくありがたい。逆に父の場合は、祖父とは会話がほぼなかったんですよ、ね?

【信喬さん】
ね? って言われても、ね。わが家は、息子だろうが弟子だろうが、入門する時に儀式をするんですね。「一升一鯛」(=「一生一代」)、つまり酒一升と大きな鯛一匹を用意して、後見人をつけて、お膳を私が出して、盃を交わして、弟子師匠の関係をつくるんです、入門する時に。よそから入ったお弟子さんでも、息子でも。そのときから、私と親子だけれど、弟子と師匠になる。
私は、子どものときから父と話す時は正座をして敬語を使っていました。で、父はほとんどしゃべらない、怖い人。もう本当、とてつもなく怖い人でしたから。戦時中はシベリアにも抑留されていましたし、話す機会が少なかった。それでいて、自分が勝手にしゃべって、私の言うことは聞いてないみたいな印象でしたから、もっと会話ができればいいなと思ってました。
息子も普段から私には敬語です。この頃はちょっと、敬語だけど上からもの言ってるような感じがするんですよね。「こんなふうにした方がいいんじゃないでしょうか」みたいなこと言い出す。とはいえ、ちゃんとした弟子師匠関係があり、こんなことやりたい、こういうことをちょっとやってみようかと言うのには、私は100パーセント否定したことがないんですよ。やれやれって、どんどんやれって。もう、お前が面白いことをどんどんやりなさいって。とにかく、子どもに対しては応援者でありつづけようと。だから逆に、私が我慢しなくちゃいけないこと、いっぱいあるんですよ。言いたいこと言えなかったり、こっちの方が気遣ったり……。どうしてかというと、やっぱり自分が死んだ後に、作家としてちゃんとやっていける人間になっていてほしいから。私の言うた通りするんやったら、私以下ですから、だめなんですよ。
中村人形は、名前を受け継ぎません。作品の題材も受け継がない。どんな技法でもいい、どんな材料を使ってもいい。ただ、最高のものをつくること。最高のものをつくれるような人間を育てていくためには、自分の知らないこともどんどん吸収してほしい、だから応援者であり続ける。それがうまくいっているかどうかは、後世で評価されると思います。
(弘峰さんと一緒に)ヨーロッパに10日間くらいいても、ずっとホテルでスケッチしたり、話したり、「次の作品こんなしよ」って。「俺もこんなことやろうと思う」、と絵を描いて……。きょうも車の中でしてきましたけど、今年の個展ではちょっとこんなものやろうかなというようなことを、もう毎日、本当に朝から晩まで話しています。朝6時に起きて7時には仕事場に座って、とにかく顔を合わせるときは常に、読んでいる本のこと、見た映画のこととか、四六時中そんな感じです。それが普通。だけども、それがはね返って刺激をもらえるんですよ。「NFT」や「ブロックチェーン」っていう新しい動きも知って、「ええ面白いね!それ」となる。もう、どんどんやりゃあいい。それが私にもやっぱり刺激になると思います。

【信良宮司】
うちの家は、代々こうしてつないでいくのですけれど、大変なこともたくさんあるんですね。いちばん大変なことって、家族旅行なんです。イメージお湧きになりますでしょうか? 長男とは同じ飛行機に乗らないんです、決して。だから、家族旅行も現地集合、現地解散なんですね。私は娘と一緒に行きますし、現宮司は母と行くという形になる。やはり、もう何かがあっても、ちゃんと(次世代を)残していくことを基準にして、その行動規範っていうのが出てくるんです。
私はよく、先代宮司に大宰府政庁跡へ連れていかれたんです。そして、あの礎石の上に座らされ、「信良、旅人が見えるか」と聞かれました。大伴旅人が見えるかって。もちろん実際には見えやせんですよ、でも、その言葉がずっと私の人生のテーマになっているような気がします。あなたは、この地に生まれ、この地に生き、この地で死んでいくんだと。でも、この地の大切なものを預かる人間にもなるんだと。この地が、この1350年以上続いてきた力は何か、想いは何か、役割は何か、それをずっと考え続けて行動していきなさいと。この地に流れる風や香りや空気や音や、すべてがあなたが、この時代、時間という、1350年と時間を越えても、同じものがそこに生きるような街づくりをしなさいと言われているような気がしました。ですから、西鉄さんから電車の名前をつけてくれと依頼された際に、すぐ頭に浮かんだのが「旅人(たびと)」だったんですね。「たびびと」と「たびと」。この太宰府にいちばんふさわしい名前じゃないかなと提案しましたら、それを採用していただけました。博多駅と太宰府を行き来するバスも「旅人」になりましたし、そういった形で、私たちのこの土地の資産というものを大切に、この時代の中で感じられるような、そんなお勤めをするのが私の家のひとつの役割じゃないかなとがんばってきました。

【信宏宮司】
私が子どもの頃、父はほとんど家にいなかったんですよね。というのも、祖父は、私が6歳、父が30歳になる頃に亡くなり、若くして父が宮司を継いで、おそらく相談する相手もなかなかいない状況で大変だったのだろうと思います。いまになったらそれが良く分かるんですけども、忙しくて家にいなかった父が唯一、子ども時代の私にしてくれて、心に残っているのは、男二人で旅をしたということなんですね。1泊2日とか2泊3日の短い旅でしたが……。もちろんさきほどの話にあったように、飛行機は乗れないので新幹線で行けるところが旅先だったのですけれども、小学校の低学年ながら私にはそれがすごく印象に残っています。どんな会話をしたということより、同じ時間を一緒にふたりだけで過ごす、そこで言葉にないものも何か伝えられたんじゃないかなと感じています。
父は、家では多弁なほうではなく、信喬先生と弘峰君ほど毎日顔を合わせてたくさんしゃべるということではないんですけども、やはりこの地で、天神さまを大事にして、この太宰府を大事にして、その祈りの形をずっと身を持って示してくれたと実感しています。ずっとそばで接していくなかで、これを受け継ぐのだという大切なものを渡していただいたので、それをどうやって次につなげるかというのが私の大きなテーマのひとつになっているところであります。
多分、突拍子もないことというか、新しい試みをやりたいと考えたときなど、普通ならば反対されることが多い場面でも「やってみたら」と任せてくれたように、何度も背中を押されてきました。宝満山竈門神社の授与所も、神社の授与所の形としてこれまでにないものをつくるために、この方にお頼みしたいという意向は、職員も含めて9割以上は理解ができないですし、見たことがないものですから普通は受け入れない、反対をするんですけども、唯一、父がやってみたらいいんじゃないかと言ってくれたので実現し、アートプログラムにかんしても芽が摘まれないようにちゃんと育ててくれたことには、いまでも感謝しています。私も長じて、こうした姿勢を見習っていかなければいけないと思っています。

親から子へ受け継ぎ、子が親を見ながら進んでゆく。後編ではさらに親世代・子世代の関係についてのトークが深まります。

後編はこちら

 

このトークは、2022年2月26日太宰府天満宮余香殿にて開催された『「中村人形と太宰府天満宮」展スペシャルトークー文化がつなぐ親ごころと子ごころー』の記録からウェブサイト用に抜粋し、再編集した内容です。

「中村人形と太宰府天満宮スペシャルトーク」ー文化がつなぐ親ごころと子ごころー
登壇者:
西高辻信良(太宰府天満宮第三十九代宮司・現 最高顧問)
西高辻信宏(太宰府天満宮第四十代宮司)
中村信喬(中村人形三代目)
中村弘峰(中村人形四代目)
進行役:
髙木崇雄(工藝風向店主)
高橋美礼(デザインジャーナリスト)

日時:令和4年2月26日(土)14:00~ 参加無料・要申込
※余香殿50名/オンライン100名限定(各先着順)
会場:太宰府天満宮余香殿(社務所2階)
主催:太宰府天満宮
共催:FACT(Fukuoka Art Culture Talk)
デザイン:三迫太郎
テキスト編集:高橋美礼