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中村弘峰「花を守る人々」

2021.16.09 Thu 16:48

平成23年(2011)11月から翌4月までの半年、僕は丁稚奉公で太宰府天満宮の神苑管理部剪定班に預かってもらい境内の梅の木の剪定をしていた。

僕の丁稚奉公の全期間は1年間だった。平成23年の4月に大学院を修了して東京から福岡へ帰った僕は父である人形師の中村信喬に弟子入りしたが、すぐに父から外で修行してこいと言われた。「人形作りは技術の前に精神性」というのが父の考え方で、入門式を終え正式に親子の縁を切って師弟関係になったとしてもなかなか家の中では甘えが出て、心を磨くことは難しい。それならばと父が前々から「息子が大学を出たら預かってもらえませんか?」とお願いしていたのが有田の人間国宝、故十四代酒井田柿右衛門先生と太宰府天満宮第39代宮司西高辻信良氏(現最高顧問)だった。お二人は父の願いを快く訊き、僕を預かってくださった。ということでまず4月から9月の暑い季節は柿右衛門窯で草むしり。そして秋になり寒くなってきたら太宰府天満宮で梅の剪定や正月準備のお手伝いという丁稚奉公の1年が始まった。

父がなぜこの2か所を修行先に選んだかというと、理由はいたってシンプルでどちらも広大な敷地を有しているからだった。以前、太宰府天満宮の境内に借りた作業場で菅原道真公御神忌1100年大祭のために木彫御神牛を制作していた父は作業場の外で朝から晩まで落ち続けるクスノキの葉を掃除するお宮の職員の方を見て「これはいいな」と閃いたらしい。自分の息子にも終わりのない掃除や作業を通じて心を鍛えさせたいと思ったそうだ。

東京藝大大学院を出た僕のことを父はこのままでは、少々ものは作れるかもしれないが人形師としてはまだまだ低レベルで、そのくせ生意気で頭でっかちなプライドだけ高い人間になると思ったらしい(今もまだそう思っていると思う)。今こそその伸び切った鼻をヘシ折る時と息子を1年間よそ様のところで無給で下働きさせてもらう丁稚奉公に送り出した。父の目論見通りどちらも途方に暮れるほど広かった。

柿右衛門窯と太宰府天満宮での修行で学ばせてもらったことは本当に数え切れないけれどそんな中でも大切なことが2つあると思う。1つ目は、人生の大きな目的は自分の居場所作りだということ。人間自分の居場所がないと辛い。

柿右衛門窯の仕事に何も貢献できない僕はせめて草むしりをして職場や敷地をきれいにすることでしかそこにいられる理由がなかった。天満宮の剪定班に入れてもらった時はもちろん梅の剪定なんてやったことないからとにかく元気に返事して荷物を運んだ。そんなことしかできないけど何か役に立てた時、純粋に嬉しいと感じた。ここにいてもいいのかもと思えるのは嬉しいことなんだと思った。

2つ目は、あるブランドの価値を生み出しているのは実はそのブランドに関わる全ての人の真摯で些細な行動の積み重ねということだ。昔から「桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」というように、桜は剪定しないほうが良い。逆に梅は新しく出た枝にしか花芽がつかないから毎年全ての枝を2、3芽ほど残して短く剪定してやらないと間延びして樹形が崩れる。放置した梅は最終的に薔薇のように枝にトゲがつき花の少ない植物になってしまう(梅はバラ科だ)。僕らが思い浮かべる花のついた梅の姿は実は人間が手を入れ続けないと見ることができない姿なのだ。

剪定班の3人と宮大工の平山さんと(修繕した「飛梅」看板を囲んで)

毎年梅の時期になると多くの参拝者が美しく咲き誇る梅を見るために太宰府天満宮を訪れる。桜は4月に1週間ほどしか楽しめないしその儚さがむしろ現代の日本人好みなのだが梅は長く楽しめるイメージがある。でもそれは、天満宮境内に約200種類計6000本の梅が植えてあるからだ。それぞれに咲く時期の異なる梅の品種が境内にいい塩梅に散りばめてあって、例年一番最初に咲く御本殿前の「飛梅」を皮切りに3月まで花が途切れることはない。これも、多くの参拝者に天神さまの愛した梅を長く一緒に楽しんでもらいたいという天満宮流のおもてなしだと思う。そして、僕が修行で預かってもらった時、この梅6000本全ての枝を古賀さん・中島さん・順(僕と同い年)というたった3人の剪定班で手入れしていた。全ての梅は枝を剪定するだけでなく毎年花が散ると木1本ずつの根のまわりに穴を掘ってたくさん肥料を与える。梅雨時期には鈴なりの梅の実を取る。膨大な仕事が日々切れ目なく続いていく。

少し遡って柿右衛門窯の半年の草むしり修行が終わった時、十四代(柿右衛門先生)が職人さんを集めて僕の送別会を開いてくださった。その時、隣に座って話したろくろ職人のカシラだった円田さんの話が忘れられない。円田さんは中学を出てすぐに柿右衛門窯に入り40年以上ろくろを回してきた人だ。ずっと十四代に怒られて、もっとこういう形で引いてくれと言われ続けなかなか十四代の満足するようにろくろを引くことができなかった。それが3年くらい前から「これでよし」と先生にやっと認めてもらえるようになったそうだ。「中村君、あの時俺は嬉しかったよ。だけど、ツライ」と円田さんはこぼした。「やっと先生の望む形にろくろが引けるようになったのに今度は自分の体力が衰えて来ているのがわかる。多分、俺の職人のピークはあと2、3年だ」大きな鉢や壺など大物のろくろを引くには粘土を抑えこむ相当な力がいる。15歳から始めて40年。目と感覚を必死で柿右衛門400年の歴史に近づけようと努力し、ようやく納得できるレベルに達したと思った途端に体の方がピークアウトしてくる。職人の花は短い。昼休みに円田さんがいつもバットの素振りをしていたのを思い出した。柿右衛門窯もまたこうやって人が長きにわたり柿右衛門の色絵磁器という美しい花を守るために人々が歴史を積み重ねてきた場所なのだと知った。

1年間の丁稚奉公を終えた頃には本当にたくさんのことを勉強させてもらったと思う。ただ実は最も大切なことをもう一つ思い知った。それは、僕は何かを作らないと気が狂いそうになるということだった。生まれてこのかた僕は絵を描いたり工作したり何かを作り続けてきたということを今更ながら実感した。修行に出て初めて1年間ほとんど何も作らない日々を過ごした。毎日はとても充実していたけれど何かを作りたい欲はずーっと溜まり続け僕の心は枯渇していた。僕は本当に何かを作ることでしか生きていけないんだということが身に染みた。これがこの修行での最も大切で意外な発見だった。

修行の終わりにお世話になった剪定班の3人のためにそれぞれの干支の面を梅の木で彫ってお礼の品にした。卯が古賀さん、巳が中島さん、丑が順。この展覧会のために10年ぶりに貸してくださいとお三方にお願いしたら集まったのは2つだけだった。どうやら中島さんが巳の面をなくしたらしい笑。豪快な中島さんらしいやと聞いた時に思わず吹き出してしまった。天晴れ。家のどこかにしまい込んでしまったらしく今も絶賛捜索中とのことでこの展覧会が終わるまでに出てきてくれたらいいなと思っている。

この展覧会のために新しい作品をひとつ作ろうと思った。「花守」とタイトルをつけたその人形は太宰府天満宮の剪定班をモデルにした人形だ。剪定バサミと梅の枝を持って切ったばかりの梅の木を見上げている。その目には次の冬に満開の花をつける梅の姿が見えているのだろうか。僕は、修行を通して気づけたように何かを作ることでしか本当の自分の居場所を作ることはできないし自分の心を救うこともできない。恥ずかしいけれど、神社で手を合わせるときはいつもこの身を何かの為にお役立てくださいと祈っている。人形は「人の祈りを形にしたもの」と中村人形では定義しているけれど、今回のこの人形はわがままかもしれないが僕の祈りを形にしてみたい。この世界の伝統や文化を連綿と繋いできたのは、実はその時代時代に生きた人々の真摯で些細な行動の積み重ねだったんだろう。人が自分の手と心を動かしてしっかり受け継いでいかないとすぐにトゲトゲの世界になってしまう。人は何か自分の大切な花を守るために生きているのかもしれない。花を守る難しさを知ったが故に、花を守るために日々を生きている人の人形を作りたい。

中村弘峰「花守」陶彫彩色 令和3年
中村弘峰「花守」陶彫彩色 令和3年 部分

中村人形はやっと僕で四代104年目まで来た。「お粥食ってもいいもん作れ」と家訓を遺した初代筑阿弥は一体どういう気持ちでこの言葉を放ったのか。ただ、この言葉は僕たち子孫の背中を厳しくも優しく押してくれる。「人形なんてものはなくても人は生きていける。なのにそれを作ることを生業にして100年続くのは本当にありがたい」と父はよく言う。だからこそせめて自分が作るものは「いいもん」じゃないと示しがつかないということなんだろう。損得でやっていたらすぐに潰れてしまう生業。そして、それは実は神社も同じなのかもしれない。

人の祈りを中心に据えているという点で繋がる中村人形と太宰府天満宮。先行き不安な時代だからこそ真摯に、小さな積み重ねを大事にしていればちゃんとまたかぐわしい花が咲いて答えてくれるはずだ。作家としての僕の花もおそらくその満開の時期は短いのだろうが、今はまだ開きかけの蕾と信じて自分が「いいもん」と思えるものを作り続け、いつか大輪の花を咲かせたい。僕が調子に乗っていたら父からよく「また修行に出すぞ」と言われる。人間ついつい初心を忘れがちだ。

この文章を最後まで読んでくれた心あるあなた。あなたがもし梅切らぬ馬鹿になってしまっている僕を見かけたら、ぜひ父と同じ言葉で叱ってほしい。

令和3年9月18日
中村人形 四代目 中村 弘峰