column
山口洋三「菊畑茂久馬と『LINKS』の試みについて」
2026.04.02 Wed 12:08
菊畑茂久馬は、戦後日本の前衛美術家の一人であり、また福岡を代表する画家でもある。2020年5月、85歳の生涯を閉じた時、新聞各紙には追悼記事が大きく掲載されたが、その頃はコロナ禍のまっただ中。葬儀は近親者のみで執り行われ、その後「お別れの会」のアイデアも浮上したのだが、コロナウィルスの波がなかなか収まらず、結局何もできないまま年月が過ぎた。
昨年2025年は、菊畑の没後から5年の年であった。菊畑のご子息である拓馬氏から、「没後5年を記念して何かできないか」と、私は相談を受けた。
ここで私自身について話しておきたい。私は長年福岡市美術館に学芸員として勤務し、主に現代美術を専門としていた。菊畑が若い頃に所属したグループ「九州派」についての研究を行っており、その一環で菊畑への知見も深めていた。2011年7月に、「菊畑茂久馬回顧展 戦後/絵画」を長崎県美術館学芸員(当時)の野中明氏と企画し、福岡市美術館と長崎県美術館で同時開催した。菊畑はこの展覧会の業績が評価され、毎日芸術賞を受賞した。私と菊畑との親交は以降も続き、国際的に活躍する美術家・村上隆氏や美術評論家・椹木野衣氏と菊畑をつないだりもした。2024年3月末、私は勤続30年を期に美術館勤務を辞め、現在はインディペンデント・キュレーター(美術館に属さない学芸員)として活動している。LINKSで各地の美術館に連絡を取ることができたのは、美術館勤務時代の人脈があったからである。
拓馬氏が私に相談をされたのは、上記知見と経験、知識を買ってくださったものだろうと想像する。当初案は、福岡市美術館をはじめとする九州や東京の、菊畑作品を所蔵するいくつかの美術館に、所蔵する菊畑作品の展示をお願いするものだったが、拓馬氏と話すうちに、「いっそ、菊畑作品所蔵館全部に、山口がお声がけできる範囲でお誘いしましょうか」となった。結果、太宰府天満宮宝物殿を含む全国19美術館が協力館として名を連ねた。企画の名称を「LINKS-菊畑茂久馬」と名付けた。
この企画は、協力美術館が所蔵している菊畑作品を、2025年から26年初頭までの間に、それぞれの美術館のコレクション展示で飾っていただくもので、その情報をまとめて当方側で発信するというもの。美術館側には、LINKSのチラシの配架や、ロゴマークを作品近隣に掲示していただく。菊畑作品を多く所蔵する福岡市美術館、長崎県美術館、徳島県立近代美術館、北九州市立美術館、そして太宰府天満宮宝物殿では、個展規模で菊畑作品を特集展示していただけることとなった。
LINKSは、もちろん菊畑への追悼の意味も込めているが、もっと深い動機がある。それは、没後の評価を高めたかったからである。画家の評価や名声は「死んでからが勝負」なのだ。LINKSの協力館は多いし、実際には20数館の美術館に菊畑作品は所蔵されているから、評価としてはすでに非常に高いといえる。しかし、今後も高い頻度で展示されるかどうか?
時代が変われば美術の評価も変化する。その変化は自然に起こると言うよりは、美術館の学芸員や、研究者の世代交代がかなり大きなウェイトを占めている。
それゆえ、若い世代の方々に、菊畑茂久馬の優れたところをしっかりと理解していただく必要がある。そうでないと、作品は収蔵庫を埋めているだけに終わってしまう。
とはいえ、菊畑の美術家としての評価や業績を要約するのは実は意外と難しい。単に美術作品を制作していただけではなく、美術評論家も太刀打ちできないほどの美術評論も書いているからである。さらに作風が若い頃と熟年期とで相当に異なっている。なかなか研究者泣かせなのである。
それをひもとこうとすれば、彼の生涯を遡る必要があるのだが、紙数も限られるため、彼の具体的な経歴については、こちらのサイト 菊畑茂久馬略歴 | 菊畑茂久馬 没後5周年企画-LINKS-展 をご覧いただきたい。
多少誤解を承知の上で、彼の美術家としての業績を要約すれば下記の2点となるだろう。
1 地方に住み続けながら、独自の造形と絵画哲学により、彼自身の「自前の絵画」にたどり着いたこと。
2 美術の「制度」を鋭く批判する美術評論を行ったこと。
国内外で評価されている美術家は、東京または首都圏(またはニューヨークやパリ)を拠点としたとか、あるいは東京藝術大学をはじめとする著名な美術系の大学出身者であることが「ほぼ必須」なのだが、菊畑の場合はいずれでもない。長崎市で生まれ(本籍地は徳島県)、幼少期に福岡市に移住して以降、生涯を同地で過ごし、また制作の拠点とした。福岡県立福岡中央高等学校卒業後は社会に出て働き始めた。つまり美術は独学である。しかも、3歳で父親を亡くし、戦時の混乱を生き抜いたものの、戦後まもなく15歳の時に母親を亡くした。決して恵まれた家庭の出身ではない。つまり、いわゆる「美術家」になるためのロイヤルロードを歩んでいない。
にもかかわらず、国内外の他の美術家に比肩することができたのはなぜかという問いが、上記1のことになる。地方に住むしかなかった美術家が、地方に住むことをむしろ自身の特色として、「地方でなければならない」と理屈を反転させて自らの絵画のよりどころとしたのである。
そのための理論付けが、上記2となる。これは、福岡県筑豊の炭坑画家・山本作兵衛の作品評価と、太平洋戦争の作戦記録画(戦争画)の論考によるところが大きい。いずれも1970年代の仕事であるが、それまで文章をほとんど書いたことのない菊畑が、美術評論家や美術史家が見向きもしなかった上記の作品に初めて踏み込み、論陣を張ったのである。荒れ狂う時代の中で、美術家は社会や時代とどう向き合い、また自らの内部を形成すべきか、表現とはどうあるべきかを考え抜いた。ゆえに、1と2は相即である。
このように考えると、例えば彼の代表作とされることの多い《ルーレット》シリーズと、熟年期の大作絵画の代表作である《天動説》とのつながりも見えてくる。20代の頃は立体や、廃品を寄せ集めたアッサンブラージュの手法による《ルーレット》などを制作したが、後年は「絵画」に収れんし、若年期に親しんだ「オブジェ」をどう乗り越えて「絵画」に到達するか、そしてその絵画にはどのような「内面」を塗りこんでいくかを徹底的に考え抜き、そして多数の大型絵画を世に送り出したのである。
ただし、これはあくまで現状の評価。今後、新しい観客の目に触れ、これまで見いだし得なかった魅力が発見されるかもしれない。その意味でも芸術家の評価は「死後」が正念場なのである。今回の「LINKS―菊畑茂久馬」がそのきっかけとなれば幸いである。
山口洋三(インディペンデント・キュレーター)